いつかのはつか

初鹿野はつかのブログです。主にメンタルヘルス・機能不全家庭・ジェンダーについて。

【随時更新】初鹿野はつかの自己紹介・お仕事について【最終更新日2023.11.30】

 

 

最終更新日:2023.11.30

はじめまして!プロフィールをご覧いただきありがとうございます。


【自己紹介】

フリーランスでWebライターをしております、「初鹿野はつか」と申します。

幼少期から学生時代を地元である埼玉県にて過ごしました。現在は福岡県にて一人暮らしで生活をしております。


幼少期からさまざまなアニメ・漫画・ゲーム等に触れてきており、現在も最新・流行の作品にはなるべく触れるように心がけております。


機能不全家庭に育ち、両親による虐待を受けながら生き延びてきた虐待サバイバーです。

発達障害精神疾患・LGBTQ+当事者でもあります。

現在はトラウマや精神症状を治療しながら、Webライターとして活動をしております。


【経歴】

都内の中高一貫校を卒業後、関東地方に本校を置く通信制高校へと進学しました。

在学中から接客業にてアルバイトとして従事し、卒業後もフリーターとしてスーパー・ネットカフェ・カラオケ等での勤務経験があります。

現在は自宅で療養しながらWebライターとして活動中です。

趣味でイラスト製作も行っており、アイビスペイント・CLIP STUDIO PAINTの使用経験があります。


【対応可能な業務内容】

・Webコンテンツの執筆

個人・法人サイトに掲載する記事の執筆が可能です。

対応可能なジャンル・納品形式に関しては以下の通りとなっております。


ジャンル

サブカルチャー、エンタメ(アニメ・漫画・ゲーム等)

メンタルヘルス

ジェンダー、LGBTQ+

・機能不全家庭、毒親

 

上記ジャンルのブログ・コラム・エッセイが執筆可能です。


納品形式

Googleドキュメント

・Word

WordPress

 

【過去の実績】

ソーシャルゲーム「ドラゴンエッグ」のレビュー記事を執筆しました

https://docs.google.com/document/d/1-fMX5ZtC-cCYUTvQSfjabkhGTLX7gpJwbDWHg4OVgDs/edit?usp=drivesdk


【現在のスケジュール・文字単価について】

・現在のスケジュール

現在、2023年12月以降納品のお仕事を募集しております。

お気軽にメール hatsukanohatsuka@gmail.com までご連絡・ご相談ください。

また、ココナラ・クラウドワークスからもお仕事を募集しております。 

ココナラ:https://coconala.com/users/4384651

クラウドワークス:https://crowdworks.jp/public/employees/5651756?ref=mypage_nav1_account


・文字単価について

原則、1.0円~/文字のお仕事からお受けしております。

記事単価については応相談とさせていただきます。


【連絡先】

メールアドレス:hatsukanohatsuka@gmail.com

ココナラ:https://coconala.com/users/4384651

クラウドワークス:https://crowdworks.jp/public/employees/5651756?ref=mypage_nav1_account


どうぞ、よろしくお願い致します!

僕と「可愛らしい服」について

服を選ぶことが、昔から苦手だった。


生まれた時に「女性」という性を割り当てられた僕は、幼少期から高校卒業までを女性として過ごした。

その過程で選ぶように強制される服は、当然スカートとか可愛らしいブラウスとか、そういう「女性用」とされているもの。

でも僕はそういう服が苦手で、いつも暗い色のTシャツにズボンという出で立ちで街を歩いていた。

当時の記憶はあまりないけれど、母も僕のそんな様子を察してか次第に可愛らしい服を買ってくることはなくなった。

 

時は経ち、高校を卒業して1年が経とうとした頃。ちょうど、地元にあるネットカフェで「女性」として就労していた時だった。

自分の今のジェンダーに耐え切れなくなった僕は、突然ホルモン治療を専門とするクリニックの予約を取り、テストステロンを打ち始めた。


(当時の詳細な状況は以下の記事に記載している。よかったら読んでくださると嬉しい)


誰もが必要なものに手を伸ばせる、そんな社会を望んでいる - いつかのはつか


テストステロンを打ち始めて数ヵ月が経ち、何も言わなければ「シスジェンダーの男性」としていわゆる「パス」ができるようになった時、僕はふと思った。


学生時代に僕が感じていた洋服への嫌悪感の理由は、本当に「そういう服が嫌いだったから」なのだろうか?


今でこそ、まだまだ広まってはいないものの「ジェンダーにかかわらずどんな服を着てもよい」と考える人が少しずつ増えてきた。

僕はその考えに触れて初めて、学生時代に抱いていた洋服への嫌悪感の理由を考える機会を得た。

 

結論から言えば、僕は「可愛らしい服」そのものが嫌いなわけではなかった。

ただ、「女性」としてそのような服を着ることに嫌悪感を抱いていただけだったのだ。


前述の通り、僕は小学生から高校生までの時期を全て「女性」として過ごしていた。

その時期に社会的・医療的なアプローチを受けられる環境にいたわけでもなければ、僕の受けたいアプローチを支援してくれる身近な大人もいなかったからだ。

どんなに己のことを「ノンバイナリーである」と認識していても、周りから「女性である」と認識されていれば、結果的にどんな行動をしても「はつかちゃんという『女の子』が◯◯をした」と捉えられてしまう。

つまり、あの頃の僕が可愛らしい服を着ても「はつかちゃんがちゃんと『女の子』らしいことをしている」と認識されるだけだったのだ。

おそらく、僕はそれが嫌だったのだろう。


では、今はどうだろうか。

現在の僕は戸籍上の性別は変更していないものの、テストステロン注射により何も言わなければ「シスジェンダーの男性である」と認識される見た目になっている。

社会的にも男性として生きており、実際に男性としてほぼクローズ(=自分のセクシュアリティをカミングアウトしないこと)で就労していた時期もある。

今のこの僕が仮に「可愛らしい服」を着たとしたら、あの頃の僕とはまた違う結果になるのではないだろうか?

……そもそも、僕は本当に「可愛らしい服」が嫌いだったのだろうか?


よくよく考えてみたら、あの頃の僕も「可愛らしい服」を「女性として」着ることは拒絶していたものの、「可愛らしい服」そのものを拒絶してはいなかった。

そして、今の性別移行をしている僕は、そのような服を積極的に着たいとすら考えている。

それなら、学生時代の僕が抱えていた嫌悪感は、結局のところ「何かをする度に女性として認識される」ことが嫌だっただけなのではないだろうか。


そう気づいたのが、テストステロン注射を打ち始めて半年が経った頃だった。

 

それから更に数ヵ月経って、僕は通販で白いフリルブラウスを購入した。

正真正銘、僕が自分の意思で初めて購入した「可愛らしい服」だ。

届いたそれに袖を通すと、あの頃の僕が抱いていたものからは想像もつかないくらいしっくりくる感覚を覚えた。

1Kの部屋に備え付けられている全身鏡の前に立つと、思っていたよりも白いブラウスがよく似合っている僕が映った。


そうして、かつての僕が抱いていた嫌悪感の正体がようやくわかったのだった。

 

当然、僕と同じノンバイナリーの方や、テストステロン注射を受けている方の中には、「格好いい服」の方がしっくりくる方もいるだろう。

そもそも「しっくりくる服装」というのは人それぞれで、そこに僕を含め誰かが干渉して良い理由などない。

しかし、己のジェンダーに関係なく、もし今自分の服装にしっくり来ないと感じている人がいたら、少し立ち止まって考えてみてほしい。


その服装は、本当にあなたが心の底から着たいと感じているものだろうか。


もちろん、置かれている状況によって自分の好きな服を着ることが許されない方もいると思う。かつての僕もそのような状況に置かれていた。

だが、もしそのような状況に置かれていない方で、「この服装をしなければならない」と自分を縛り付けている方がいたら、ちょっと待ってほしい。

それは、あなたが自然にそう思ったのではなく、「社会」にそう思わされているかもしれないからだ。


残念ながら、今の社会でも「服装」というものにはジェンダーがついて回っている。

そして、個人のジェンダーによって「正しい服装」「間違っている服装」というものがあるのだ、と僕たちに思わせようとしてくる。

しかし、それは違う、と僕は言いたい。

なぜなら、「服装」に「ジェンダー」をくっつけたのは社会の側だからだ。

本来なら、個人による服装の好みはあっても、ジェンダーによる正しい服装や間違っている服装などというものはないはずなのである。

それなのに、社会は僕たちにジェンダーによる固定観念を植え付け、本来の個人が持つ好みすらも制限しようとする。僕は、そういう社会が心底嫌いだ。

個人のジェンダーによって身に付けるべき服装が決まっている環境も、前述したような「社会」が産み出したものだろうと僕は考えている。


本来ならば、「服」に「性別」はくっついていないのだと思う。ただ、社会が勝手にくっつけているだけで。

だから、ある程度服装を自由に選べる僕だけでも、この社会への抵抗を示すために「可愛らしい服」を着ていこうと思う。

どんなジェンダーの人でも、本当に好きな服装ができる社会になることを願って。

誰もが必要なものに手を伸ばせる、そんな社会を望んでいる

※この記事には、僕が見聞きした/経験した、ノンバイナリーやトランスジェンダーに対する差別的な言動が含まれています。

その姿かたちははっきりとしないものの、性に対する違和感は常に僕へとつきまとっていた。

といっても、幼い頃から可愛い洋服を泣いて嫌がった(僕は出生時に女性という性を割り当てられていた)だとか、そういう「わかりやすい」エピソードがあったわけではない。
ただ、自分に差し出されるものと、自分のものとは反対の性……つまり、男性という性を割り当てられたひとへ差し出されるものの違いについて、常に「なんで?」がつきまとうのだ。
あのこは仮面ライダーのおもちゃを貰った。私はプリキュアのおもちゃを貰った。なんで?
あのこはズボンを着せてもらった。私はスカートを着せられた。なんで?
あのこはかっこいい袴で七五三の写真を撮った。私はかわいらしい着物で七五三の写真を撮った。……なんで?
それはただの知的好奇心だったのかもしれない。そもそも僕には幼少期の記憶がほとんど抜け落ちているから、なぜそう思ったのか、なんて問いの答えは出しようがない。

ただ、僕はその「なんで?」を誰かに問いかけることはなく日々を過ごしていた。
それは僕が機能不全家庭に育ち、疑問を呈すことを禁じられていたから……ということもあるが、何より「その問いが異常なものである」ということをなんとなく感じ取っていたからだ。
みんな、自分に差し出されたものを嬉しそうに受け取っている。誰も嫌がったり、ましてや「なんで?」だなんて、問いかけたりしていない。
それなら、僕のこれは異常なものなのだ。幼い僕はそう感じ、湧いて出る疑問を丁寧に心の底へと押し込めた。
それでも、その「なんで?」は、確実に僕を蝕んでいった。


小学6年生の僕は、自分が連ねた志望校をことごとく実父に否定された挙句、半ば強制され女子校へと進むことになった。
今でも、中学受験時代の進学先の選択についてはずっと後悔している。だけれど、その時の僕には実父へ抵抗するという選択肢がなかったのだから、後悔したところでどうしようもないのだが。
進学した先の女子校は、100年以上の歴史がある由緒正しき学校だった。それはもう、校長先生が集会の度に「女性らしく、おしとやかに」なんて生徒たちに説くくらい、とっても。
スラックス型の制服なんて当然なく、選択の余地はなかった。
足元やおしりの感覚が心もとないスカートを履きながら、最初の頃は毎日頑張って通っていたように思う。
しかし、中学校でもなおいじめに遭い、さらに気付かぬうちに性別違和が膨れ上がっていた僕は、ある日突然学校へ通えなくなった。

学校に通えなくなった決定的な理由は、覚えていない。その頃の記憶も抜け落ちている僕に分かるのは、僕が精神科へ入院する時に実父が書いた書類に記載されてることだけ。
意を決して目にしたその書類にすら学校に通えなくなった理由ははっきりと書かれていなかったから、ついぞ迷宮入りだ。
ただ、推測するに、あの頃の僕はおそらく中学受験時代の極度なストレスや進学先でのいじめ、そして性別違和による制服等への苦痛がないまぜになって、最終的に不登校へと行き着いたのではないかと思っている。
不登校やそれに関する事柄についてはいつか別の記事で書きたいが、この記事の本筋ではないため更なる詳細は割愛する。


高校は通信制課程のみを置いており、かつ実家から近い距離にキャンパスがある学校に進学した。
その高校には制服自体はあるものの、普段の登校は私服で良く、なおかつ式典等へも制服に準ずる服装ならば指定のものを身につけなくても良い、という今考えてみれば(少なくとも、制服の面においては)かなり恵まれている条件だった。
もっとも、僕の進学した高校は「実父のお眼鏡にかなうところ」という条件で選んだため、僕の希望はあってないようなものだったが。

高校に進学した僕は、ほどなくして自分の性別違和と向き合うことになった。
メイクや染髪を楽しむ周りに、必死で合わせようとしたものの半年足らずで挫折したことはよく覚えている。(余談だが、僕の高校時代の記憶は、他の時代に比べてかなり多く残っている。おそらくは小中時代よりもストレスが比較的少なかったのだろう)
しっかり「女性」をやれているように見える周りに対して、うまく「女性」をやれない僕。
幸い性別違和の表出によって浮いたりいじめられたりすることはなかったけれど、自分が目を背けていたものと向き合うということはそれ相応のつらさを僕にもたらした。

「女性」がやれない。「女性」として、スカートを履きたくない。メイクをしたくない。
でも、僕は「男性」か?と自問自答してみれば、それは違う、とはっきり返ってきた。だからといって僕は「女性」か?と自問自答してみると、これまた違う、と返ってくる。
今でこそ少しずつ変わり始めているかもしれないが、僕が高校生になったばかりの頃は、「バイナリーなトランスジェンダー」以外の性別違和を抱える存在……つまりは「ノンバイナリー」や「Xジェンダー」という存在があまり知られていなかった。
Xジェンダー」という単語は比較的知られていたように思えるが、僕が今自認している「ノンバイナリー」という単語に、その当時はたどり着くことすらできなかった。
その当時の僕は迷いに迷った結果、一旦「Xジェンダー」と自認し、名乗ることにした。

そうして己の性を自認し、性別違和について調べ始めてから、さまざまなことを知った。ホルモン治療のこと。僕のような「出生時に女性という性を割り当てられたひと」に対して行われる、乳房や子宮卵巣を取り除く手術のこと。ジェンダークリニックのことや、そこに受診するまで、したあとの流れのこと。
でも、それらの対象と「されている」ひとと、僕の間には決定的な違いがあった。それは、「バイナリーなトランスジェンダー」であるか、「ノンバイナリー、もしくはXジェンダー」であるか、だ。
当時の性別違和に対する身体的な治療は、常に「バイナリーなトランスジェンダー」のひとのみを対象としていた。今でこそ少しずつ「身体的治療はバイナリーなトランスジェンダーのひとだけのものではない」という声があげられているが、僕が高校生だった頃はそのようなことを言っているひとはどこにも見当たらなかった。
僕は高校に在学している3年間と、卒業してからの約1年を費やして、考え続けた。
今の身体のままで居続けるのは、絶対に嫌だ。それから、「女性」のままでも居たくない。でも、ホルモン治療をしたら?手術をしたら?……僕はその時、本当に後悔しないでいられる?
それが分からないまま、月日は過ぎていった。

ある日、僕は膨れ続ける性別違和に耐えかねて、あるジェンダークリニックの予約を取った。
予約を取った時点で、初診日はひと月後だった。その1ヶ月の間、僕は胃を痛めながらも待ち続け、ついにその日がやってきた。
これで解放されるのだ、と思った。すぐに治療が出来るわけでないことは理解していたが、少なくとも性別違和をただ抱え続けることしか出来ない日々は終わるのだ。そう思っていた。
だけれど、現実は違った。

僕はジェンダークリニックの初診で、「ノンバイナリーであること」「ホルモン治療は迷っているが、乳房の摘出手術は受けたいこと」を医師に伝えた。(この頃の僕は、自分を表す言葉として「Xジェンダー」ではなく、「ノンバイナリー」を使用するようになっていた)
医師は僕のそれに特に何も言うことなく今後の簡単な流れを説明し、次の予約の日を調整して僕を待合室へと戻した。
初診や、その後の受診にかかった費用は安くなかったことは覚えている。それでも、この苦しみから少しでも解放されるなら出していこうと思える費用だった。
そうして、医師や心理士との診察・面談を重ねて行き、通い始めてから4ヶ月が経った頃、心理士からこう言われた。

「どうして、自分をノンバイナリーだと思うんですか?身体的治療を望むなら、トランスジェンダー男性、でいいんじゃないですか?」

この質問にどう答えたか、僕はあまりよく覚えていない。なんとなく濁して、その場をしのいだような記憶はあるけれど。それくらい、ショックを受ける質問だった。
「どうして自分をノンバイナリーだと思うの?男性、じゃなくて?」
「ノンバイナリーなのに、本当に身体的治療が必要なの?」
この2つは、僕がジェンダークリニックの門を叩くまで、毎日のように自分へ投げかけていた言葉だ。その質問は、僕自身が自分へ嫌になるほどしていたのだ。

そもそも、「なぜ自分をノンバイナリーだと思うのか」という問いは、しばしばマジョリティの側から発せられる、非常に暴力的な質問だ。
シスジェンダーのひとびとは、その性自認の在り方について「なんで?」「どうして?」と問いかけられることはない。この社会では、残念なことにシスジェンダーという在り方が「普通」で「正常」なものとされているからだ。
対して、ノンバイナリー・トランスジェンダーのひとびとは、常にその在り方を問われ続ける。「なんでそう思うの?」「いつからそうなの?」「勘違いだとは思わなかったの?」……といった具合に。
実に不均衡だ、と僕は思うし、あまりの不公平さに目眩すら覚える。
ノンバイナリーやトランスジェンダーのひとびとは、時として自分の在り方を、あろうことか自分自身にすら問われ続けなければならない、ということが、もっと知られてほしい。
そして、相手の在り方を「なぜ『そう』なの?」という質問をすることは、非常に暴力的なことである、ということも。

心理士からその質問をされた翌月、僕はジェンダークリニックに行かなくなった。
あの問いかけを投げつけられてから、僕は僕自身が分からなくなってしまった。
僕は本当に身体的治療を望んでいたのか?僕は、本当にノンバイナリーなのだろうか?
そんな問いかけが僕の脳内を占拠して、アルバイトが手につかなくなることも増えた。
それでも、ひとたび外に出れば社会は僕を「女性」として扱う。
それがどんどん積み重なっていって、僕を押し潰しそうになった時、僕は衝動的に「ホルモン治療専門のクリニック」の予約を取った。
自分ではない何かを見られ、判断される日々に嫌気が差した。もう、耐えきれない。「性同一性障害」の診断書がなくても大丈夫なら、もうそれを頼りにするしかない。
そうして僕はそのクリニックに行き、ホルモン治療を開始した。……「トランスジェンダー男性」として。

診断書は無いものの、「トランスジェンダー男性である」というていで受診したら、驚くほどあっさりホルモン注射を打ってもらえた。あの頃ジェンダークリニックに通い続けていたのが、すごく馬鹿らしくなるくらいに。
当然、僕は昔も今も変わらずノンバイナリーだ。しかし、それを口にしようとする度に心理士が発したあの言葉が脳裏によぎるから、あれ以来の僕は外に出る時、なるべく「トランスジェンダー男性」として振る舞うようになった。
正直言って、屈辱だった。自分でない何かを名乗った瞬間、何もかもが上手く行き始める、というのは。
でも、僕が自分の望む姿を手に入れるには、それしか方法がなかったのだ。

バイナリーなトランスジェンダーであるひとびとに対する医療的なアプローチ(ホルモン治療や性別適合手術等)は、当然大切なものだ。それらは全て守られるべきだし、個々人の属性に関係なくアクセスが容易になるべきだと思う。
しかし、ノンバイナリーやXジェンダーなど、いわゆるバイナリー「ではない」トランスジェンダーとされるひとびとが医療的なアプローチを必要としても、跳ね除けられることが多いように僕は感じる。
「ノンバイナリーやXジェンダーは、『本物』のトランスジェンダーじゃない」
「本気で男性/女性になる気がないのなら、身体的治療はしない方がいい」
そういう馬鹿げた言葉たちによって、ノンバイナリーやXジェンダーのひとびとが医療的なアプローチを必要とした時に、アクセスを阻まれる・アクセスが出来ても伸ばした手を跳ね除けられる……そういう現状が、今まさにある。僕がジェンダークリニックで直面した出来事も、それだ。

僕が望むのは、バイナリーであるか否かにかかわらず、性別違和を持つ全てのひとがそれぞれ必要としているさまざまなアプローチへ容易にアクセスできる社会だ。
正直、今の社会はそのようになっているとは言い難い。そもそも、(ノンバイナリーや、Xジェンダーのひとびとに比べたら)比較的さまざまなアプローチへのアクセスが容易とされているバイナリーなトランスジェンダーのひとびとでも、社会的・金銭的、その他諸々の理由でそれが阻まれることは多々ある。
性別違和を抱えるひとびとの中には、社会にはびこる差別や、性別違和が要因の一端となった精神疾患等で就労が難しいひとが多く居る。
しかし、就労が難しく収入を満足に得られない性別違和を抱えるひとびとがアクセスできるアプローチは、そう多くはない。というより、無いに等しい。
ホルモン治療は戸籍上の性別を変更しなければ保険適用にはならないし、仮に変更したとしても保険適用になるかは各病院の裁量による。
そして、性別適合手術は日本でしようとタイでしようとあまりに費用が高すぎる。軽く数百万円はかかるそれは、おそらく就労に問題がないひとびとでも用意することが難しい大金だろう。

トランスジェンダー・ノンバイナリー・Xジェンダー等の性別違和を持つひとびとが、社会で生きていくにあたって受ける差別やアクセスが困難になりやすいさまざまなアプローチについて、もっと知られてほしい。
そして願わくば、僕がこの生を終えるまでに、性別違和を抱える全てのひとびとが何も気にすることなく必要とするアプローチにアクセスできる社会を見てみたい。僕は、そう願っている。

虐待サバイバーが行き着いた先のこと

※この文章には、虐待に関する詳しい描写が含まれます。
フラッシュバックの可能性がある方、虐待に関する描写を避けている方等は、注意しながら読み進めていただくことをおすすめします。

 

 

僕の父は、いわゆる「エリート」だった。
小学生の頃から成績優秀で、中学から高校は都内の有名かつ優秀な一貫校に進学し、その後は日本とアメリカの大学を両方経験した上で修了した――という、多くの人が「素晴らしい」と賞賛するような、折り紙付きの。
それほどまでに「素晴らしい、優秀な人」が、家庭の中では暴力を振るい、あまりに過ぎた権力を振りかざし、実の子供を追い詰めたことを。
その行いのどれもが、未だにひとりの人間を死の淵へ追いやっていること。
それら全てを、父を賞賛した人々に聞かせてやりたい。何度そう願っただろう。

父も母も、僕が幼い頃は優しかったのだろう、と推測している。家族写真には、笑顔の両親と仏頂面をした僕が映っているものばかりだった。
いつ頃から虐待が始まったのかは、もう覚えていない。
はっきりと覚えている一番最初の記憶は、たった6歳の、虐待を受ける幼い自分を見ながら、「こいつは私ではない」と己に言い聞かせたこと。それだけだ。

父はよく、パニックを起こして泣き叫ぶ僕にこう言った。
「お前は頭がおかしい、精神科にぶち込んでやる」と。
勉強が上手くできない、成績が芳しくない。父の機嫌を損ねた、コミュニケーションが上手く取れなかった。パニックを起こした、恐怖で泣き叫んだ。その全てが、父からの「虐待」の理由になり得た。
そうして虐待を受け続け、いつしか僕のパニックの引き金は「できないことそのもの」よりも「父に折檻される恐怖」になっていった。

実父からの虐待を受け始めた小学1年生から、家出も同然で実家を出たその時までの記憶は、正直に言うとほとんど残っていない。
思い出そうとしても白いモヤがかかったように上手く思い出せず、そのくせ時折フラッシュバックのように虐待の記憶が顔を出しては、僕をどこまでも苦しめる。
実家にいる頃は、「実父を手にかけるのが先か、僕が自殺するのが先か」とよく考えていた。そして、そのどちらかにしか僕の進む道はないように思えて、しょっちゅう絶望していた。


実家から出られることになった理由は、はっきり言って本当に運がよかっただけのこと、としか述べることが出来ない。
それでも、僕の経験が誰かに届くことを願って、その理由と経緯を書いていこうと思う。

家庭では虐待を受け、学校ではいじめを受け、どこにも居場所がなかった僕は、中学生になって本格的にスマートフォンを触れるようになると、すぐにSNSに入り浸った。
SNSには色んな人がいた。ほとんどの人が僕よりも年上で、境遇や生い立ちもさまざまだったが、それでも自分の生い立ちや境遇、年齢や容姿などを開示するかどうかをある程度選べる環境で過ごすというのは、僕に一定の安らぎをもたらした。
僕がSNSに触れ始めた頃に仲良くなった人のうち数人とは、今も関係性が続いている。有難いことだ、本当に。

何度かSNS上での振る舞い方を失敗したこともあったが、結局僕の居場所はSNS、ひいてはインターネット上にしかなかったため、失敗したとてそこに居るしかなかった。
中学生、高校生と歳を重ね、高校を卒業して随分経った頃に僕の人生をゆるがす出来事が起こった。
高校卒業と同時に身を置くようになった実家以外の場所――詳細は身元が割れてしまうため伏せておく――から、実家へ戻らなくてはならなくなったのだ。
理由としては、僕の体調面や金銭面の問題が大きい。その時の環境に問題があったわけではなかったし、むしろ実家に身を置かないで済むという環境は、僕の精神面の回復に繋がった。
しかし、のっぴきならないほどの理由により実家へ戻らなくてはならない状況となり、僕は引っ越しを済ませ実家へと舞い戻った。

 

実家へ戻った僕に、実父は「共同生活のルール」として、いくつかの項目を言いつけた。
毎月5万円を家に入れること、愚痴や不満は決して言わないこと、常に機嫌良さそうに過ごすこと――等々。
金銭面の事柄以外は実父や実母、実弟も守れているとは到底思えないルールを、僕にのみ課せられたのだ。実家に戻ったストレスによりひと月足らずで希死念慮や自殺企図が再発していた僕は、まず満足に働くことが出来なくなり、実家にお金を入れることが難しくなった。
なんとか実父に融通してもらって金銭面のルールは緩和してもらったものの、今度は「ルールも守れないクズ」と罵られる始末だ。
実父の機嫌が芳しくなければ、ルールを記載した紙を持ってこいと命令され、音読させられては「これら全てを私は守れていません、申し訳ありません」と土下座させられることもあった。
その当時の記憶はほとんど残っていないのだが、友人曰く「見ていて心配になるくらい酷い状態だった」らしい。

心身ともに疲弊し、満足に就労が出来なくなってからは、掲示板で相手を探してはお金を融通してもらうことが増えた。
先んじて言っておこう。僕がしていた所謂「売春行為」は、とても危険であり、なおかつ真似をするべきではないものである。
しかし、実父によって洗脳されていた僕は、実家から逃げるなど到底できないことだと思っていた。お金を稼げない自分に価値はない、とも思わされていた。
売春行為によって得たお金は、実父にはアルバイトで稼いだ、と嘘をついた。身も心もすぐにボロボロになっていった。

そんなある日、僕は掲示板で出会った相手にお金を騙し取られた。
お金に困っている、生活に苦慮している、と話す僕に対して、姑息な手段で金銭を盗み取った相手に対しての恨みは、正直に言うとあまりない。
それよりも、ままならなくなって両親に「お金を騙し取られた」相談した時に実父から放たれた言動の方を、僕はよっぽど恨んでいる。

 

「お前は馬鹿だ」
「普通はそんなことに騙されるわけがない。もしそんなことに騙されるようなら、お前は社会に出て行けるはずがない」
「お前を一切信用出来ないから、これから出かける時は逐一どこへ何をしに行くか報告するように」

 

その頃には、実父の言動に対してもうとっくに何も思わなくなっていたから、当時何を思っていたか自分でもあまり覚えていない。
ただ、実父からのなじる様な言動の末ようやく解放されて自室に戻った後、号泣しながらSNSにぐちゃぐちゃの文章で自分の思いを書き殴ったことだけは覚えている。

身一つで実家を出た僕を約1ヶ月の間自宅へと置いてくれたのは、6〜7年前にSNSで出会った1人の友人だった。
彼女とは数年前に複数人でのオフ会で顔を合わせたきりコロナ禍が重なったことも相まって会えていなかったが、僕のSNSへの投稿を見てメッセージを寄越してくれた。
「もし実家に居るのが危ないと感じるなら、自分の家にならしばらくの間は置いてあげられるから言ってほしい」という旨のメッセージを送ってくれた彼女に、僕は「ありがとう、もしそちらまで行ける目処が立ったらまた声をかけるかもしれない」と返した。

その当時は7月の上旬だった。
手持ちのお金は6、7万円弱。そして、両親と実弟は7月末から旅行で家を長く空ける。
すぐに実家の最寄り空港から、友人の住む場所に近い空港への航空券の値段を調べた。さまざまな手続きや準備を経て実家を出ても、お釣りが来るくらいの値段だった。
実家を出よう。こんな地獄で飼い殺されるなど、僕には耐えられない。このままここに居たら、死んでしまうか、実父を手にかけてしまうかの2択だ。
数日かけてその結論を出し、友人にしばらく居候させてほしい、という旨のメッセージを送った。

友人から居候についての承諾のメッセージが返ってきた後、実父たちが旅行に発つのを待ち、それからすぐに準備を始めた。
住民票や戸籍の附票の閲覧制限、最低限の持参物の荷造り、実家にいたペットの引き取り手探し。実父たちが実家を空ける期間は1週間ほどしかなかったから、動かないからだを引きずって全てを終わらせた。
そうして実父たちが実家に戻ってくる前日の夜、僕は荷物をぱんぱんに詰めたキャリーケースとリュックサックと共に家を出た。


実家を出てから数ヶ月が経った。僕はなんとか生きている。
友人、役所、そして公的な支援を利用しながら自宅を確保し、1人での生活がおおむね出来るようになった。
僕の虐待サバイバーとしての戦いは終わっていない。フラッシュバックだって、解離症状だって、まだ顔を出してくる。僕はまだ、戦わねばならない。
それでも、眠る時に誰かの足音に怯えなくてもよい、という感覚を得られただけで、僕はあの地獄から這い出てよかったと思っている。

虐待は「逃げて終わり」ではない。この言葉はまさしく、虐待サバイバーの実情を表していると思う。
逃げたその先でも、戦わねばならない。トラウマや、不理解や、スティグマ――それ以外にも、本当にたくさんのものと、僕たちは戦っていかなければならない。
それでもどうか、あの生き地獄を振り切ったものとして、「あの時の僕」と、似たような状況に置かれているものたちに生きていてほしい、と願う。

生きていればいいことがある、なんてことを言うつもりはない。僕はそんなことを言えるほど綺麗事が好きではない。
ただ、あなたには、あなたを大事に扱うものたちが居る場所に向かう権利がある。全てのものたちに、その権利があるはずなのだ。
あなたが、あなたの心身が安らぐ場所へ、できる限り早く向かうことができるように。僕はそれをずっと祈り続けている。