いつかのはつか

初鹿野はつかのブログです。主にメンタルヘルス・機能不全家庭・ジェンダーについて。

虐待サバイバーが行き着いた先のこと

※この文章には、虐待に関する詳しい描写が含まれます。
フラッシュバックの可能性がある方、虐待に関する描写を避けている方等は、注意しながら読み進めていただくことをおすすめします。

 

 

僕の父は、いわゆる「エリート」だった。
小学生の頃から成績優秀で、中学から高校は都内の有名かつ優秀な一貫校に進学し、その後は日本とアメリカの大学を両方経験した上で修了した――という、多くの人が「素晴らしい」と賞賛するような、折り紙付きの。
それほどまでに「素晴らしい、優秀な人」が、家庭の中では暴力を振るい、あまりに過ぎた権力を振りかざし、実の子供を追い詰めたことを。
その行いのどれもが、未だにひとりの人間を死の淵へ追いやっていること。
それら全てを、父を賞賛した人々に聞かせてやりたい。何度そう願っただろう。

父も母も、僕が幼い頃は優しかったのだろう、と推測している。家族写真には、笑顔の両親と仏頂面をした僕が映っているものばかりだった。
いつ頃から虐待が始まったのかは、もう覚えていない。
はっきりと覚えている一番最初の記憶は、たった6歳の、虐待を受ける幼い自分を見ながら、「こいつは私ではない」と己に言い聞かせたこと。それだけだ。

父はよく、パニックを起こして泣き叫ぶ僕にこう言った。
「お前は頭がおかしい、精神科にぶち込んでやる」と。
勉強が上手くできない、成績が芳しくない。父の機嫌を損ねた、コミュニケーションが上手く取れなかった。パニックを起こした、恐怖で泣き叫んだ。その全てが、父からの「虐待」の理由になり得た。
そうして虐待を受け続け、いつしか僕のパニックの引き金は「できないことそのもの」よりも「父に折檻される恐怖」になっていった。

実父からの虐待を受け始めた小学1年生から、家出も同然で実家を出たその時までの記憶は、正直に言うとほとんど残っていない。
思い出そうとしても白いモヤがかかったように上手く思い出せず、そのくせ時折フラッシュバックのように虐待の記憶が顔を出しては、僕をどこまでも苦しめる。
実家にいる頃は、「実父を手にかけるのが先か、僕が自殺するのが先か」とよく考えていた。そして、そのどちらかにしか僕の進む道はないように思えて、しょっちゅう絶望していた。


実家から出られることになった理由は、はっきり言って本当に運がよかっただけのこと、としか述べることが出来ない。
それでも、僕の経験が誰かに届くことを願って、その理由と経緯を書いていこうと思う。

家庭では虐待を受け、学校ではいじめを受け、どこにも居場所がなかった僕は、中学生になって本格的にスマートフォンを触れるようになると、すぐにSNSに入り浸った。
SNSには色んな人がいた。ほとんどの人が僕よりも年上で、境遇や生い立ちもさまざまだったが、それでも自分の生い立ちや境遇、年齢や容姿などを開示するかどうかをある程度選べる環境で過ごすというのは、僕に一定の安らぎをもたらした。
僕がSNSに触れ始めた頃に仲良くなった人のうち数人とは、今も関係性が続いている。有難いことだ、本当に。

何度かSNS上での振る舞い方を失敗したこともあったが、結局僕の居場所はSNS、ひいてはインターネット上にしかなかったため、失敗したとてそこに居るしかなかった。
中学生、高校生と歳を重ね、高校を卒業して随分経った頃に僕の人生をゆるがす出来事が起こった。
高校卒業と同時に身を置くようになった実家以外の場所――詳細は身元が割れてしまうため伏せておく――から、実家へ戻らなくてはならなくなったのだ。
理由としては、僕の体調面や金銭面の問題が大きい。その時の環境に問題があったわけではなかったし、むしろ実家に身を置かないで済むという環境は、僕の精神面の回復に繋がった。
しかし、のっぴきならないほどの理由により実家へ戻らなくてはならない状況となり、僕は引っ越しを済ませ実家へと舞い戻った。

 

実家へ戻った僕に、実父は「共同生活のルール」として、いくつかの項目を言いつけた。
毎月5万円を家に入れること、愚痴や不満は決して言わないこと、常に機嫌良さそうに過ごすこと――等々。
金銭面の事柄以外は実父や実母、実弟も守れているとは到底思えないルールを、僕にのみ課せられたのだ。実家に戻ったストレスによりひと月足らずで希死念慮や自殺企図が再発していた僕は、まず満足に働くことが出来なくなり、実家にお金を入れることが難しくなった。
なんとか実父に融通してもらって金銭面のルールは緩和してもらったものの、今度は「ルールも守れないクズ」と罵られる始末だ。
実父の機嫌が芳しくなければ、ルールを記載した紙を持ってこいと命令され、音読させられては「これら全てを私は守れていません、申し訳ありません」と土下座させられることもあった。
その当時の記憶はほとんど残っていないのだが、友人曰く「見ていて心配になるくらい酷い状態だった」らしい。

心身ともに疲弊し、満足に就労が出来なくなってからは、掲示板で相手を探してはお金を融通してもらうことが増えた。
先んじて言っておこう。僕がしていた所謂「売春行為」は、とても危険であり、なおかつ真似をするべきではないものである。
しかし、実父によって洗脳されていた僕は、実家から逃げるなど到底できないことだと思っていた。お金を稼げない自分に価値はない、とも思わされていた。
売春行為によって得たお金は、実父にはアルバイトで稼いだ、と嘘をついた。身も心もすぐにボロボロになっていった。

そんなある日、僕は掲示板で出会った相手にお金を騙し取られた。
お金に困っている、生活に苦慮している、と話す僕に対して、姑息な手段で金銭を盗み取った相手に対しての恨みは、正直に言うとあまりない。
それよりも、ままならなくなって両親に「お金を騙し取られた」相談した時に実父から放たれた言動の方を、僕はよっぽど恨んでいる。

 

「お前は馬鹿だ」
「普通はそんなことに騙されるわけがない。もしそんなことに騙されるようなら、お前は社会に出て行けるはずがない」
「お前を一切信用出来ないから、これから出かける時は逐一どこへ何をしに行くか報告するように」

 

その頃には、実父の言動に対してもうとっくに何も思わなくなっていたから、当時何を思っていたか自分でもあまり覚えていない。
ただ、実父からのなじる様な言動の末ようやく解放されて自室に戻った後、号泣しながらSNSにぐちゃぐちゃの文章で自分の思いを書き殴ったことだけは覚えている。

身一つで実家を出た僕を約1ヶ月の間自宅へと置いてくれたのは、6〜7年前にSNSで出会った1人の友人だった。
彼女とは数年前に複数人でのオフ会で顔を合わせたきりコロナ禍が重なったことも相まって会えていなかったが、僕のSNSへの投稿を見てメッセージを寄越してくれた。
「もし実家に居るのが危ないと感じるなら、自分の家にならしばらくの間は置いてあげられるから言ってほしい」という旨のメッセージを送ってくれた彼女に、僕は「ありがとう、もしそちらまで行ける目処が立ったらまた声をかけるかもしれない」と返した。

その当時は7月の上旬だった。
手持ちのお金は6、7万円弱。そして、両親と実弟は7月末から旅行で家を長く空ける。
すぐに実家の最寄り空港から、友人の住む場所に近い空港への航空券の値段を調べた。さまざまな手続きや準備を経て実家を出ても、お釣りが来るくらいの値段だった。
実家を出よう。こんな地獄で飼い殺されるなど、僕には耐えられない。このままここに居たら、死んでしまうか、実父を手にかけてしまうかの2択だ。
数日かけてその結論を出し、友人にしばらく居候させてほしい、という旨のメッセージを送った。

友人から居候についての承諾のメッセージが返ってきた後、実父たちが旅行に発つのを待ち、それからすぐに準備を始めた。
住民票や戸籍の附票の閲覧制限、最低限の持参物の荷造り、実家にいたペットの引き取り手探し。実父たちが実家を空ける期間は1週間ほどしかなかったから、動かないからだを引きずって全てを終わらせた。
そうして実父たちが実家に戻ってくる前日の夜、僕は荷物をぱんぱんに詰めたキャリーケースとリュックサックと共に家を出た。


実家を出てから数ヶ月が経った。僕はなんとか生きている。
友人、役所、そして公的な支援を利用しながら自宅を確保し、1人での生活がおおむね出来るようになった。
僕の虐待サバイバーとしての戦いは終わっていない。フラッシュバックだって、解離症状だって、まだ顔を出してくる。僕はまだ、戦わねばならない。
それでも、眠る時に誰かの足音に怯えなくてもよい、という感覚を得られただけで、僕はあの地獄から這い出てよかったと思っている。

虐待は「逃げて終わり」ではない。この言葉はまさしく、虐待サバイバーの実情を表していると思う。
逃げたその先でも、戦わねばならない。トラウマや、不理解や、スティグマ――それ以外にも、本当にたくさんのものと、僕たちは戦っていかなければならない。
それでもどうか、あの生き地獄を振り切ったものとして、「あの時の僕」と、似たような状況に置かれているものたちに生きていてほしい、と願う。

生きていればいいことがある、なんてことを言うつもりはない。僕はそんなことを言えるほど綺麗事が好きではない。
ただ、あなたには、あなたを大事に扱うものたちが居る場所に向かう権利がある。全てのものたちに、その権利があるはずなのだ。
あなたが、あなたの心身が安らぐ場所へ、できる限り早く向かうことができるように。僕はそれをずっと祈り続けている。