いつかのはつか

初鹿野はつかのブログです。主にメンタルヘルス・機能不全家庭・ジェンダーについて。

誰もが必要なものに手を伸ばせる、そんな社会を望んでいる

※この記事には、僕が見聞きした/経験した、ノンバイナリーやトランスジェンダーに対する差別的な言動が含まれています。

その姿かたちははっきりとしないものの、性に対する違和感は常に僕へとつきまとっていた。

といっても、幼い頃から可愛い洋服を泣いて嫌がった(僕は出生時に女性という性を割り当てられていた)だとか、そういう「わかりやすい」エピソードがあったわけではない。
ただ、自分に差し出されるものと、自分のものとは反対の性……つまり、男性という性を割り当てられたひとへ差し出されるものの違いについて、常に「なんで?」がつきまとうのだ。
あのこは仮面ライダーのおもちゃを貰った。私はプリキュアのおもちゃを貰った。なんで?
あのこはズボンを着せてもらった。私はスカートを着せられた。なんで?
あのこはかっこいい袴で七五三の写真を撮った。私はかわいらしい着物で七五三の写真を撮った。……なんで?
それはただの知的好奇心だったのかもしれない。そもそも僕には幼少期の記憶がほとんど抜け落ちているから、なぜそう思ったのか、なんて問いの答えは出しようがない。

ただ、僕はその「なんで?」を誰かに問いかけることはなく日々を過ごしていた。
それは僕が機能不全家庭に育ち、疑問を呈すことを禁じられていたから……ということもあるが、何より「その問いが異常なものである」ということをなんとなく感じ取っていたからだ。
みんな、自分に差し出されたものを嬉しそうに受け取っている。誰も嫌がったり、ましてや「なんで?」だなんて、問いかけたりしていない。
それなら、僕のこれは異常なものなのだ。幼い僕はそう感じ、湧いて出る疑問を丁寧に心の底へと押し込めた。
それでも、その「なんで?」は、確実に僕を蝕んでいった。


小学6年生の僕は、自分が連ねた志望校をことごとく実父に否定された挙句、半ば強制され女子校へと進むことになった。
今でも、中学受験時代の進学先の選択についてはずっと後悔している。だけれど、その時の僕には実父へ抵抗するという選択肢がなかったのだから、後悔したところでどうしようもないのだが。
進学した先の女子校は、100年以上の歴史がある由緒正しき学校だった。それはもう、校長先生が集会の度に「女性らしく、おしとやかに」なんて生徒たちに説くくらい、とっても。
スラックス型の制服なんて当然なく、選択の余地はなかった。
足元やおしりの感覚が心もとないスカートを履きながら、最初の頃は毎日頑張って通っていたように思う。
しかし、中学校でもなおいじめに遭い、さらに気付かぬうちに性別違和が膨れ上がっていた僕は、ある日突然学校へ通えなくなった。

学校に通えなくなった決定的な理由は、覚えていない。その頃の記憶も抜け落ちている僕に分かるのは、僕が精神科へ入院する時に実父が書いた書類に記載されてることだけ。
意を決して目にしたその書類にすら学校に通えなくなった理由ははっきりと書かれていなかったから、ついぞ迷宮入りだ。
ただ、推測するに、あの頃の僕はおそらく中学受験時代の極度なストレスや進学先でのいじめ、そして性別違和による制服等への苦痛がないまぜになって、最終的に不登校へと行き着いたのではないかと思っている。
不登校やそれに関する事柄についてはいつか別の記事で書きたいが、この記事の本筋ではないため更なる詳細は割愛する。


高校は通信制課程のみを置いており、かつ実家から近い距離にキャンパスがある学校に進学した。
その高校には制服自体はあるものの、普段の登校は私服で良く、なおかつ式典等へも制服に準ずる服装ならば指定のものを身につけなくても良い、という今考えてみれば(少なくとも、制服の面においては)かなり恵まれている条件だった。
もっとも、僕の進学した高校は「実父のお眼鏡にかなうところ」という条件で選んだため、僕の希望はあってないようなものだったが。

高校に進学した僕は、ほどなくして自分の性別違和と向き合うことになった。
メイクや染髪を楽しむ周りに、必死で合わせようとしたものの半年足らずで挫折したことはよく覚えている。(余談だが、僕の高校時代の記憶は、他の時代に比べてかなり多く残っている。おそらくは小中時代よりもストレスが比較的少なかったのだろう)
しっかり「女性」をやれているように見える周りに対して、うまく「女性」をやれない僕。
幸い性別違和の表出によって浮いたりいじめられたりすることはなかったけれど、自分が目を背けていたものと向き合うということはそれ相応のつらさを僕にもたらした。

「女性」がやれない。「女性」として、スカートを履きたくない。メイクをしたくない。
でも、僕は「男性」か?と自問自答してみれば、それは違う、とはっきり返ってきた。だからといって僕は「女性」か?と自問自答してみると、これまた違う、と返ってくる。
今でこそ少しずつ変わり始めているかもしれないが、僕が高校生になったばかりの頃は、「バイナリーなトランスジェンダー」以外の性別違和を抱える存在……つまりは「ノンバイナリー」や「Xジェンダー」という存在があまり知られていなかった。
Xジェンダー」という単語は比較的知られていたように思えるが、僕が今自認している「ノンバイナリー」という単語に、その当時はたどり着くことすらできなかった。
その当時の僕は迷いに迷った結果、一旦「Xジェンダー」と自認し、名乗ることにした。

そうして己の性を自認し、性別違和について調べ始めてから、さまざまなことを知った。ホルモン治療のこと。僕のような「出生時に女性という性を割り当てられたひと」に対して行われる、乳房や子宮卵巣を取り除く手術のこと。ジェンダークリニックのことや、そこに受診するまで、したあとの流れのこと。
でも、それらの対象と「されている」ひとと、僕の間には決定的な違いがあった。それは、「バイナリーなトランスジェンダー」であるか、「ノンバイナリー、もしくはXジェンダー」であるか、だ。
当時の性別違和に対する身体的な治療は、常に「バイナリーなトランスジェンダー」のひとのみを対象としていた。今でこそ少しずつ「身体的治療はバイナリーなトランスジェンダーのひとだけのものではない」という声があげられているが、僕が高校生だった頃はそのようなことを言っているひとはどこにも見当たらなかった。
僕は高校に在学している3年間と、卒業してからの約1年を費やして、考え続けた。
今の身体のままで居続けるのは、絶対に嫌だ。それから、「女性」のままでも居たくない。でも、ホルモン治療をしたら?手術をしたら?……僕はその時、本当に後悔しないでいられる?
それが分からないまま、月日は過ぎていった。

ある日、僕は膨れ続ける性別違和に耐えかねて、あるジェンダークリニックの予約を取った。
予約を取った時点で、初診日はひと月後だった。その1ヶ月の間、僕は胃を痛めながらも待ち続け、ついにその日がやってきた。
これで解放されるのだ、と思った。すぐに治療が出来るわけでないことは理解していたが、少なくとも性別違和をただ抱え続けることしか出来ない日々は終わるのだ。そう思っていた。
だけれど、現実は違った。

僕はジェンダークリニックの初診で、「ノンバイナリーであること」「ホルモン治療は迷っているが、乳房の摘出手術は受けたいこと」を医師に伝えた。(この頃の僕は、自分を表す言葉として「Xジェンダー」ではなく、「ノンバイナリー」を使用するようになっていた)
医師は僕のそれに特に何も言うことなく今後の簡単な流れを説明し、次の予約の日を調整して僕を待合室へと戻した。
初診や、その後の受診にかかった費用は安くなかったことは覚えている。それでも、この苦しみから少しでも解放されるなら出していこうと思える費用だった。
そうして、医師や心理士との診察・面談を重ねて行き、通い始めてから4ヶ月が経った頃、心理士からこう言われた。

「どうして、自分をノンバイナリーだと思うんですか?身体的治療を望むなら、トランスジェンダー男性、でいいんじゃないですか?」

この質問にどう答えたか、僕はあまりよく覚えていない。なんとなく濁して、その場をしのいだような記憶はあるけれど。それくらい、ショックを受ける質問だった。
「どうして自分をノンバイナリーだと思うの?男性、じゃなくて?」
「ノンバイナリーなのに、本当に身体的治療が必要なの?」
この2つは、僕がジェンダークリニックの門を叩くまで、毎日のように自分へ投げかけていた言葉だ。その質問は、僕自身が自分へ嫌になるほどしていたのだ。

そもそも、「なぜ自分をノンバイナリーだと思うのか」という問いは、しばしばマジョリティの側から発せられる、非常に暴力的な質問だ。
シスジェンダーのひとびとは、その性自認の在り方について「なんで?」「どうして?」と問いかけられることはない。この社会では、残念なことにシスジェンダーという在り方が「普通」で「正常」なものとされているからだ。
対して、ノンバイナリー・トランスジェンダーのひとびとは、常にその在り方を問われ続ける。「なんでそう思うの?」「いつからそうなの?」「勘違いだとは思わなかったの?」……といった具合に。
実に不均衡だ、と僕は思うし、あまりの不公平さに目眩すら覚える。
ノンバイナリーやトランスジェンダーのひとびとは、時として自分の在り方を、あろうことか自分自身にすら問われ続けなければならない、ということが、もっと知られてほしい。
そして、相手の在り方を「なぜ『そう』なの?」という質問をすることは、非常に暴力的なことである、ということも。

心理士からその質問をされた翌月、僕はジェンダークリニックに行かなくなった。
あの問いかけを投げつけられてから、僕は僕自身が分からなくなってしまった。
僕は本当に身体的治療を望んでいたのか?僕は、本当にノンバイナリーなのだろうか?
そんな問いかけが僕の脳内を占拠して、アルバイトが手につかなくなることも増えた。
それでも、ひとたび外に出れば社会は僕を「女性」として扱う。
それがどんどん積み重なっていって、僕を押し潰しそうになった時、僕は衝動的に「ホルモン治療専門のクリニック」の予約を取った。
自分ではない何かを見られ、判断される日々に嫌気が差した。もう、耐えきれない。「性同一性障害」の診断書がなくても大丈夫なら、もうそれを頼りにするしかない。
そうして僕はそのクリニックに行き、ホルモン治療を開始した。……「トランスジェンダー男性」として。

診断書は無いものの、「トランスジェンダー男性である」というていで受診したら、驚くほどあっさりホルモン注射を打ってもらえた。あの頃ジェンダークリニックに通い続けていたのが、すごく馬鹿らしくなるくらいに。
当然、僕は昔も今も変わらずノンバイナリーだ。しかし、それを口にしようとする度に心理士が発したあの言葉が脳裏によぎるから、あれ以来の僕は外に出る時、なるべく「トランスジェンダー男性」として振る舞うようになった。
正直言って、屈辱だった。自分でない何かを名乗った瞬間、何もかもが上手く行き始める、というのは。
でも、僕が自分の望む姿を手に入れるには、それしか方法がなかったのだ。

バイナリーなトランスジェンダーであるひとびとに対する医療的なアプローチ(ホルモン治療や性別適合手術等)は、当然大切なものだ。それらは全て守られるべきだし、個々人の属性に関係なくアクセスが容易になるべきだと思う。
しかし、ノンバイナリーやXジェンダーなど、いわゆるバイナリー「ではない」トランスジェンダーとされるひとびとが医療的なアプローチを必要としても、跳ね除けられることが多いように僕は感じる。
「ノンバイナリーやXジェンダーは、『本物』のトランスジェンダーじゃない」
「本気で男性/女性になる気がないのなら、身体的治療はしない方がいい」
そういう馬鹿げた言葉たちによって、ノンバイナリーやXジェンダーのひとびとが医療的なアプローチを必要とした時に、アクセスを阻まれる・アクセスが出来ても伸ばした手を跳ね除けられる……そういう現状が、今まさにある。僕がジェンダークリニックで直面した出来事も、それだ。

僕が望むのは、バイナリーであるか否かにかかわらず、性別違和を持つ全てのひとがそれぞれ必要としているさまざまなアプローチへ容易にアクセスできる社会だ。
正直、今の社会はそのようになっているとは言い難い。そもそも、(ノンバイナリーや、Xジェンダーのひとびとに比べたら)比較的さまざまなアプローチへのアクセスが容易とされているバイナリーなトランスジェンダーのひとびとでも、社会的・金銭的、その他諸々の理由でそれが阻まれることは多々ある。
性別違和を抱えるひとびとの中には、社会にはびこる差別や、性別違和が要因の一端となった精神疾患等で就労が難しいひとが多く居る。
しかし、就労が難しく収入を満足に得られない性別違和を抱えるひとびとがアクセスできるアプローチは、そう多くはない。というより、無いに等しい。
ホルモン治療は戸籍上の性別を変更しなければ保険適用にはならないし、仮に変更したとしても保険適用になるかは各病院の裁量による。
そして、性別適合手術は日本でしようとタイでしようとあまりに費用が高すぎる。軽く数百万円はかかるそれは、おそらく就労に問題がないひとびとでも用意することが難しい大金だろう。

トランスジェンダー・ノンバイナリー・Xジェンダー等の性別違和を持つひとびとが、社会で生きていくにあたって受ける差別やアクセスが困難になりやすいさまざまなアプローチについて、もっと知られてほしい。
そして願わくば、僕がこの生を終えるまでに、性別違和を抱える全てのひとびとが何も気にすることなく必要とするアプローチにアクセスできる社会を見てみたい。僕は、そう願っている。